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日本史テスト

近代国家の成立と発展1語句2

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問題

1844 
オランダ国王がアヘン戦争の様子を伝え開国の必要を説いたが、幕府は拒絶。2年後ビッドルが浦賀に来航、開国を要求。
このころアメリカは中国貿易と捕鯨のために日本を寄港地と考えていた。

1853 
ペリーが浦賀に来航し、開国を要求した。老中阿部正弘ら幕府は翌年の回答を約束し帰らせた。
同年、長崎にロシアのプチャーチンも来航し、開国を要求した。

1854 を結び、
ペリーが再び浦賀に来航、幕府は和親条約を結んだ。下田・函館の開港や薪水等を与えること、一方的な最恵国待遇などを承認。
イギリス・ロシア・オランダとも同内容の条約を結んだ。

1858 、貿易開始
米総領事ハリスはアロー戦争を取り上げ、老中堀田正睦に通商条約の締結を迫った。
大老井伊直弼は通商条約の締結を行うとともに、一橋派の反対を押し切り、慶福を将軍の後継ぎと決定。

1860 
井伊直弼は一橋派の大名や吉田松陰・橋本佐内らを処罰した。(安政の大獄)
これに怒った水戸浪士らが江戸城桜田門付近で直弼を殺害した。これ以降幕府は公武合体の方針に転換した。

1862 
武蔵国橘樹郡生麦村付近にて、薩摩藩主島津茂久の父、島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士らが殺傷した事件

1863
前年の生麦事件の報復として、イギリス人が鹿児島を砲撃した。
薩摩、英国双方に死傷者が出、西郷隆盛・大久保利通らは攘夷をすて開国・倒幕に方針転換した。イギリスも薩摩の実力を知り接近した。

1864 
文久三年(八月十八日)の政変で京都から追放された長州藩兵らが、勢力回復のため上洛。
長州藩は御所を守る会津・薩摩藩と戦い敗北。「朝敵」として幕府の攻撃を受け屈伏(第一次長州征討)。

1864 
前年の長州藩が下関で外国船を砲撃。
それに対する報復を英仏米蘭が実行。第一次長州征討に屈伏し、保守派が藩を支配したが、やがて高杉晋作は騎兵隊を組織して討幕へと進んでいった。

1866 
坂本龍馬の仲介で薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎(のちの木戸孝允)が会談し、討幕勢力を形成した。
幕府はこの秘密同盟を知らずに第2次長州征討を行うが失敗、将軍家茂の死を機に撤兵。

1867 
15代将軍慶喜はフランスのロッシュの援助で、土佐の山内豊信のすすめで大政奉還を申し出、受理された。
この狙いは列藩会議の議長として徳川氏の力を残すことにあり、坂本龍馬が構想した。






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