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日本史テスト

近代国家の成立と発展5語句1

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問題 1.

1881 明治14年の変遷
開拓使官有物払い下げに政府批判が高まった。そこで岩倉具視らの政府は民権派に近かった参議のを罷免し、の勅諭を出して世論の鎮静化を図った。
は国会の早期開設を主張。

1881 国会開設の勅諭
10年後の1890年に国会を開設するという天皇の勅令。
この年板垣退助は党を、翌年大隈重信が党を結成し、政党運動の段階に入った。政府側も党を結成した。

1882 壬午軍乱(壬午事変)
日朝修好条規以降、朝鮮では親清の派と親日の一派が対立していた。
大院君派の兵士が公使館などを襲撃したが、は失脚し政権となった。乱後、公使館守備兵の駐留権などを獲得。

1882 日本銀行の開業
大隈のあと大蔵卿となったは、緊縮財政・官営工場の払い下げ・の整理などの政策を推進した。
中央銀行として日本銀行を設立し、1885年からの銀行券を発行した(本位制)

1883 鹿鳴館が完成する
外務卿(85〜大臣)のは不平等条約改正のために極端な政策をとり、鹿鳴館に外交官を招いてパーティーを開いた。
外国人判事を任用する交換条約や欧化政策は政府内外から批判され、条約改正交渉は

問題 2.

1884 秩父事件
松方デフレ政策はの価格を急落させ、農民の困窮を招き、激化事件が続発。秩父事件はその中で最大の事件。
福島事件に始まる激化事件の結果、党が解党するなど民権運動は一時衰退した。

1884 甲申事変
壬午軍乱後閔妃政権は的になっており、親日派のら独立党がクーデターを起こしたが失敗した。
両軍が出兵したが、条約を結んで撤退し、日本の朝鮮進出は一時停滞した。

1885 内閣制度の創設
太政官を廃止し、以下全大臣を天皇が任命して制度が発足した。
政府は天皇制国家づくりを進めるため、貴族院の準備として令、中央集権的地方行政のための制、制を制定。

1886 学校令を制定
を総称したもの。文部大臣が制定。
帝国大学を育成機関とし、国家主義的教育が確立。

1887 保安条例の制定
運動や運動によって民権運動が再び高揚し、民権運動家がに集まった。
そこで政府は条例を制定し、民権運動家の多くをから追放した。








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