日本史テスト
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701
刑部親王(おさかべしんのう)を総裁とし、藤原不比等らが作成。
二官八省五衛府一台の中央政府、国郡里の地方行政など、律令国家のしくみを整えた。
708
武蔵国から銅が献上されたことを受けて、銅銭・銀銭2種類が発行された。
当時は稲や布を交換手段とする経済だったのでほとんど流出せず、
政府は蓄銭叙位令をだした。
関連事項
和同開珎以下、乾元大宝(けんげんたいほう)まで12種の銭貨が鋳造され、
皇朝十二銭とよぶ。
710
奈良盆地北端の交通の要所を選び、元明天皇(げんめいてんのう)の時に遷都した。
朱雀大路を中央に左京・右京に分け、条坊制によって、細かく区分。
東側の外京に興福寺などがあった。
718
藤原不比等を中心に大宝律令の修正版としたが、内容上の大きな変更はなかった。
平安前期に完成した「令義解(りょうのぎげ)」(公式解釈書)によって令の大半は現存しているが、
律はほとんど残ってない。
720
舎人親王(とねりしんのう)が中心となり元正天皇の時に完成。神代から持統天皇までの歴史を、
漢文・編年体で記している。
「古事記」は「帝紀」「旧辞」の再編集事業を継承し、太安万呂(おおのやすまろ)が筆録。
723
班田農民の浮浪・逃亡による口分田の荒廃、人口増加による口分田不足に対し、
新たに用水路を開いて開墾すれば三世、古い用水路を用いて開墾すれば一身の私有を 認めた。
この政策は長屋王政権が行った。
729
藤原不比等の死後、天武の孫の長屋王が政権を握ったが、不比等の4人の子の策謀により
自殺に追い込まれた。
妹の光明子(こうみょうし)が聖武天皇の皇后となったが、4人の子は疫病により次々と死亡。
740
不比等の四子の死後、皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を担当し、
唐から帰国した玄ムや吉備真備を重用した。
これに不満を抱いた式家の藤原広嗣が大宰府で大規模な反乱を起こした。
741
聖武天皇は仏教を厚く信仰し、仏教による鎮護国家を図ってこの詔を出した。
国ごとに金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)(国分寺)と
法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)(国分尼寺)を建て、
護国の法会(ほうえ)を行わさせた。
743
仏教による鎮護国家の実現をさらに図って、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)の造立を命じた。
大仏建立は紫香楽宮(しがらきのみや)で始まったが、平城京に遷都後は、総国分寺である東大寺に事業は移された。完成は10年後の752年であった。
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