問題 1.
743 墾田永年私財法の発布
三世一身法では、私有期限が近づくと農民が耕作を放棄し、田は荒廃した。
そこで、墾田の永久私有を認めた。
この結果、東大寺などが浮浪人等を用いて開発を行い、初期荘園が成立。
752 東大寺大仏開眼供養
聖武天皇や貴族・僧ら1万人以上が見守る中、インド僧を招いて開眼供養を行った。
当時の日本は東アジア世界において、新羅を従えて唐に次ぐ帝国になる狙いがあったので、
大規模な儀式になったと考えられる。
759 唐招提寺の建立
鑑真は日本への渡航に何度も失敗し、盲目となりながらも日本へ来た。
鑑真は律宗(戒律)を伝え、
はじめに東大寺に戒壇()(僧になるための戒律を受ける施設)を設け、
次いで、唐招提寺を創建した。
764 恵美押勝()(藤原仲麻呂)の乱
光明皇太后を後だてにして権力を握った藤原仲麻呂は官職名を唐風にし、
自らも淳仁天皇()から唐風名の恵美押勝を賜った。
孝謙上皇は道鏡()を寵愛したので、仲麻呂は道鏡打倒の兵をあげたが敗死。
関連事項
奈良時代は女帝の多い時代だった。
元明・元正・孝謙・称徳(孝謙が重祚)の3人(4代)。
770 道鏡を下野国薬師寺()に追放
孝謙上皇は再び天皇(称徳)となり、道鏡は法王となって仏教勢力による政治を行った。
宇佐八幡宮神託事件()で
道鏡を天皇にする企みは阻止され、称徳天皇の死後、道鏡は下野国薬師寺別当に左遷された。
問題 2.
784 桓武天皇が長岡京に遷都
桓武天皇は平城京での貴族の抗争・僧の政治介入を嫌い、水運の良い長岡京に遷都。
しかし、河川の増水などで建設が進まず、増宮長官であった藤原種継が暗殺されると
長岡京を捨て、平安京に再遷都した。
関連事項
桓武天皇は班田を12年1班とし、
勘解由使()の設置で国司の交代時の不正を防ぐ改革をした。
794 平安京に遷都
平安京は山河に囲まれ、自然が城の役割をする立地条件に恵まれていた。
そのため山背国から山城国と変更している。
藤原緒嗣の提案で京の造営が中止されたので、左京のみ栄え右京は荒廃したという。
802 坂上田村麻呂(の)が胆沢城()を築く
奈良時代末の、伊治砦万呂(の)以来、蝦夷()の反乱が続き、
坂上田村麻呂が征夷大将軍としてこれを鎮圧し阿弖流為()を捕らえた。
北上川中流に胆沢城を築き、鎮守府を多賀城からここに移した。
810 薬子の変
平城上皇()は藤原薬子()・仲成と結び、
平城京遷都と復位を策した。
嵯峨天皇は軍を送り仲成は敗死、薬子は自殺。この事件の際に天皇の秘書役として
蔵人頭(の)を設置し、藤原冬嗣を任命。
823 大宰府管内に公営田を開発
農民の浮浪・逃亡・偽籍などのために中央政府への調庸等の納入が減少。
また地方豪族や有力農民が納税を拒否する動きも広まった。
中央政府の財源確保のため、大宰府管内に公営田を設け、有力農民(田堵)が開発。
他に畿内に管田、天皇家のために勅旨田()などが開発された。
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