日本史テスト
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空海が綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立
空海は真言宗を伝え、金剛峯寺・教王護国寺を中心に活動。
漢詩文の名手(性霊集)であり書道でも三筆のうちの1人(風信帖)である。
綜芸種智院は庶民教育機関として開設された。
承和の変
謀反の罪で伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(三筆の一人)らが流罪となった事件。
これにより藤原冬嗣の子良房の権勢は強まり、858年に幼少の清和天皇が即位すると
実質上の摂政に。藤原氏北家の摂関政治の始まりである。
応天門の変
応天門の放火事件により大納言伴善男(とものよしお)らが流罪となった事件。
この事件で、藤原良房は人臣で初めて正式に摂政に就任した。
補足
摂政は令に規定されている官職であるのに対し、関白は令外官である。
藤原基経が関白となる
この年藤原基経は光孝天皇即位の際、事実上の関白となった。(正式には887年)
のちの宇多天皇の時に阿衡の紛議(あこうのふんぎ)がおき、基経は政治を放棄。結局宇多天皇が改めて基経を関白に任じ、関白の政治的地位が確立。
遣唐使の廃止
安史の乱以降の唐の衰退や航海上の危険を理由に、菅原道真が提案し廃止された。
ここから漢詩文の作成や、唐風儀式の導入など唐風文化の最盛期から国風文化の発達に移行することになる
延喜の荘園整理令
拡大する荘園を停止し律令制、即ち公地公民制の再建を図ったが、この年の班田実施以降の記録がなく、失敗に終わった。
醍醐天皇は摂政・関白を置かず天皇親政を行い、「延喜の治」と称えられた。
勅撰(ちょくせん)の「古今和歌集」成立
我が国初の勅撰和歌集で、紀貫之らが編集した。
背景には9世紀後半からの仮名の発明、在原業平(ありわらのなりひら)や
小野小町ら六歌仙の活躍などが挙げられる。
承平・天慶(てんぎょう)の乱が始まる
関東地方の平将門、瀬戸内地方の藤原純友の両乱で、941年まで続いた。
地方における武士勢力の台頭を示すと共に、将門の乱は押領使藤原秀郷が鎮圧するなど、
武士が朝廷に利用されていたことがわかる。
安和の変
左大臣源高明(みなもとのたかあきら)を謀反の罪で大宰府に左遷。
藤原実頼が摂政となり、以降摂関常置となる。
この事件より藤原氏の氏長者(うじちょうじゃ)をめぐる内紛が続いたが、
藤原道長が伊周との抗争に勝ち、道長・頼通の時に摂関政治最盛期となる。
源信の「往生要集」ができる
10世紀半ば空也が京の人々に念仏を説き、少し遅れて比叡山で修業した源信が
この理論書を書いた。
浄土教は、疫病など社会不安の増大と、末法思想の流行により広まった。
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