問題 1.
828 空海がを設立
空海は真言宗を伝え、金剛峯寺・教王護国寺を中心に活動。
漢詩文の名手(性霊集)であり書道でも三筆のうちの1人(風信帖)である。
は庶民教育機関として開設された。
842 承和の変
謀反の罪で伴健岑・橘逸勢(三筆の一人)らが流罪となった事件。
これにより藤原の子の権勢は強まり、858年に幼少の天皇が即位すると
実質上の摂政に。藤原氏北家の摂関政治の始まりである。
866 応天門の変
応天門の放火事件により大納言らが流罪となった事件。
この事件で、藤原は人臣で初めて正式にに就任した。
補足
摂政は令に規定されている官職であるのに対し、関白は官である。
884 藤原が関白となる
この年藤原は天皇即位の際、事実上の関白となった。(正式には887年)
のちの宇多天皇の時に阿衡の紛議がおき、基経は政治を放棄。結局宇多天皇が改めて基経を関白に任じ、関白の政治的地位が確立。
894 遣唐使の廃止
安史の乱以降の唐の衰退や航海上の危険を理由に、菅原が提案し廃止された。
ここから漢詩文の作成や、唐風儀式の導入など唐風文化の最盛期から文化の発達に移行することになる
問題 2.
902 の荘園整理令
拡大する荘園を停止し律令制、即ち公地公民制の再建を図ったが、この年の班田実施以降の記録がなく、失敗に終わった。
天皇は摂政・関白を置かず親政を行い、「の治」と称えられた。
905 勅撰の「古今和歌集」成立
我が国初の勅撰和歌集で、らが編集した。
背景には9世紀後半からの仮名の発明、在原業平や
ら六歌仙の活躍などが挙げられる。
935 承平・の乱が始まる
関東地方の平、瀬戸内地方の藤原の両乱で、941年まで続いた。
地方における武士勢力の台頭を示すと共に、将門の乱は押領使藤原秀郷が鎮圧するなど、
武士が朝廷に利用されていたことがわかる。
969 安和の変
左大臣源を謀反の罪で大宰府に左遷。
藤原実頼が摂政となり、以降摂関常置となる。
この事件より藤原氏のをめぐる内紛が続いたが、
藤原道長がとの抗争に勝ち、道長・頼通の時に摂関政治最盛期となる。
985 源信の「」ができる
10世紀半ばが京の人々に念仏を説き、少し遅れて山で修業した源信が
この理論書を書いた。
教は、疫病など社会不安の増大と、思想の流行により広まった。
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