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日本史テスト

中世社会の成立と展開2語句2

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問題

1205 
後鳥羽上皇は多芸多才で特に優れ、「新古今和歌集」編纂を命じた。
当代一の歌人とされた藤原定家らが編集にあたった。体言止めなどの手法を用いた優雅で印象的な歌風は、後世にも重んじられた。

1213  
2代源頼家を廃止、北条氏を中心に有力御家人による合議政治がはじまったが、比企・畠山氏などが次々と滅ぼされた。
北条義時は和田義盛を滅ぼして、政所と侍所の別当を兼ね、執権の権力を強めた。

1219  
源頼家の遺児公暁によって鶴岡八幡宮の石段において殺され、源氏の将軍は断絶。
幕府は後鳥羽上皇の息子を将軍に望んだが拒否された。そこで、頼朝の遠縁にあたる九条頼経を将軍に迎えた。

1220 
天台座主(慈円)が書いた歴史書。歴史を動かす法則を「道理」とよび、また末法思想の影響を受けて公家の没落・武家の発展を描く。後鳥羽上皇が計画していた承久の乱を、いさめようとして書いた。

1221 
後鳥羽上皇は西面の武士を設置し義時追討の戦いを起こしたが
敗れ、隠岐へ流された。この結果、幕府は上皇方の所領に地頭(新補地頭)を設置して、西国にも支配力を伸ばした。朝廷の監視などを目的に六波羅探題を設置した。

1224 
師法然の専修念仏の教えをさらに徹底し、絶対他力の考えを打ち出し、浄土真宗の開祖となった。悪人正機説は、弟子唯円の「歎異抄」に記されている。

1225 
執権北条泰時は、執権の補佐役として北条時房を連署とし、重要政務合議のため有力御家人を評定衆に任命した。その結果、御成敗式目による法治主義と、有力御家人による合議政治とにより、幕府政治は安定した。

1232 
承久の乱後、新補地頭と荘園領主の紛争が増えたので、裁判の基準を示すため制定。右大将(頼朝)以来の先例と道理(武家の慣習)を基準とし、平易な文章で御家人の職務や相続について規定。御家人のみ適用。

1247 
執権北条時頼は有力御家人による合議政治を守りながら、同時に三浦泰村を滅ぼすなど北条氏独裁の傾向を強めた。また、摂家将軍九条頼経を謀反の罪で京都へ送還した。

1249 
執権北条時頼は急増する所領訴訟に対し、訴訟を専門的に担当する引付を設置。引付は評定衆を補佐するもので、引付頭人や引付衆から成り、訴訟事務や裁決のスピードアップ化を狙ったものである。








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