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日本史テスト

中世社会の成立と展開3語句2

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問題

1252 
摂家将軍2代目の九条頼嗣は,御家人と結んで北条氏打倒を策したとして廃された.
その結果,北条時頼は,後嵯峨天皇の皇子,宗尊親王を将軍にした.皇族将軍は,4代続いたが,名目的なものであった.

1274 
元のフビライ=ハンは,高麗を通じて日本に朝貢を求めたが,執権北条時宗は拒否.その結果,元・高麗群が九州に上陸して御家人軍は,集団戦法と「てつはう」(火器)に苦しんだが,暴風雨のために,元軍は撤退した.

1281 
1279年に南宋を滅ぼした元は,元・高麗・旧南宋軍で,九州に来襲した.元軍は,再び集団戦法と火器で日本軍を苦しめたが,暴風雨により撤退した.この後,幕府は非御家人の動員権を得て,支配力を強めた.

1285 
元寇後,得宗専制の傾向が強まった.北条貞時の内管領(御内人の代表)平頼綱は対立していた御家人,安達泰盛を滅ぼした.その結果,得宗の家臣にすぎない御内人が得宗とともに政務に加わり,御家人の不満が高まった.

1297 
御家人の所領質入れ・売買を禁じ,高利貸(借上)に売却した所領を無償で返還させた.御家人窮乏の理由は,元寇による出費と恩賞のなさ,分割相続による所領の細分化,貨幣経済の進展に伴う出費の増大などである.

1321 
後嵯峨上皇の死後,皇室で大覚寺統と持明院統が対立し,幕府は両統迭立を提案.その結果,大覚寺統の五第五天皇が即位し,院政を停止し,記録所を再興して日野介資朝,北畠親房らを起用して,天皇親政を断行.

1331 
正中の変で一度討幕に失敗した後醍醐天皇が再び討幕を計画した.結局失敗し,後醍醐天皇は隠岐へ流されたが,天皇の皇子護良親王や楠木正成らが各地で幕府軍と戦い続けた.

1334 
1333年,鎌倉幕府が滅び,後醍醐天皇は京都へ戻って新政を始めた.記録所を最高機関,雑訴決断所を訴訟機構としたが,恩賞の少なさや,天皇の綸旨で,所領を決めることなどに,武士の不満が高まる.

1336 
中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は,新政に不満を持つ武士とともに京都へ進撃した.そして楠木正成,新田義貞らを破り,持明院統の光明天皇を立てた尊氏は,北条義時,泰時の政治を理想とするこの政治方針書を発表.

1338 
尊氏は,光明天皇から征夷大将軍に任命.幕府の運営は,尊氏と弟,直義の2人で行われた.尊氏が新興武士に依拠したのに対し,直義は,鎌倉幕府体制の再建をめざしたため,やがて2人は対立する.





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