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日本史テスト

中世社会の成立と展開4読み

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問題 1.

1342 足利尊氏,天竜寺船を元に派遣
臨済宗の夢窓疎石()の勧めで,足利尊氏は後醍醐天皇の冥福を祈るため,天竜寺を創建.
天竜寺造営費用を得るために,元に派遣したもの.国交がなかったので,私貿易の形式であった.こうした形式のものに建長寺船がある.

1350 観応の擾乱()始まる
足利尊氏の執事高師直()と足利直義は政権の方針を巡って対立し,武力衝突となった.
南北朝の動乱期に幕府の内紛が加わったため,守護・地方武士の動きは複雑となり,南北朝の動乱が長期化する1つの原因となった.

1352 半済令()の発布
直義が尊氏に殺されて観応の擾乱は一応終結し,尊氏は南朝に対抗するため,半済令を発布.
近江・美濃・尾張国の荘園年貢の半分を守護に与えることにした.守護は国人を家臣化して守護大名に成長.半済は初め3か国,1年限定だったが,やがて全国化・永続化していった.

1356 「菟玖波集()」ができる
北朝の摂政二条良基()が編集した連歌集で,勅撰()に準ぜられた.
鎌倉時代,あらゆる身分で連歌が行われていたが,二条良基は「応安新式」を定め,連歌の規則を統一した.

1378 足利義満,花の御所を造営
3代義満は,花の御所と呼ばれた邸宅を京都室町に造ったので,室町幕府と一般に呼んでいる.義満は,朝廷の支配権を吸収し,土倉への課税,全国の段銭()徴収権などを手に入れた.



問題 2.

1391 明徳の乱
中国地方を中心に多くの国の守護となって「六分一衆()」と呼ばれた山名氏のうちの氏清()を,義満が討った事件.この前年に美濃の土岐氏を討つなど,義満は将軍権力の強化に努めた.
守護は,半済や守護請を用いて,任国を支配し,将軍をしのぐ勢力を持つ者もいた.

1392 南北朝の合一
義満のあっせんで,南朝の後亀山()天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し,合一した.
この2年後義満は太政大臣になり,すでに準三后()(太皇太后・皇太后・皇后に準ずる地位)にあり,日本国王への道を歩んでいった.この年,李成桂()が高麗()を滅ぼし,李氏朝鮮を建国した.

1397 義満,金閣を造営
鹿苑寺()金閣は,初層が寝殿造(),中層が武家風の造り,上層が禅宗様の建物.
義満の代に,幕府は京の市政権を獲得.こうした政治状況を反映し,伝統的な公家文化と武家好みの禅宗文化の融合が,北山文化であった.
義満の保護を受けた世阿弥()は猿楽能()を大成し,能楽理論書「風姿花伝()(花伝書)」を書いた.

1399 応永の乱
周防()・長門()国など6か国の守護であった大内義弘()を,義満が討った事件.
大内義弘は,当時最大の守護大名であったため,義満に狙われていた.そこで足利満兼()らと結んで反乱を起こしたが敗北.

1401 義満,明と国交を開く
明からの倭寇禁圧を朝貢の要求を受け入れて,正使祖阿()・副使肥富()を送った.
翌年明の使節が来日し,義満を「日本国王」と認め,翌々年義満は,「日本国王臣源()」と名乗って明に臣従する外交関係を結んだ.
義満の国書「日本準三后某,書を大明皇帝陛下にたてまつる.・・・」





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