問題
1588
京都方広寺の大仏造立を名目に,一揆の防止を真の狙いに農民から武器を徴収した。
この結果地侍などの半農半武士的存在は徐々に姿を消し,太閤検地・人掃令と合わせて、兵農分離が進行していった。
1590 が
関東を支配する北条氏を破り、伊達政宗など奥羽の大名を臣従させて全国平定を達成した。
徳川家康を関東地方に移らせたが、家康は江戸を中心に開発を進め、約250万石の大大名となり五大老の1人として重きをなした。
1592
秀吉は朝鮮に日本の入貢と明への先導を要求したが朝鮮は拒否した。
肥前国名古屋から出兵した日本軍は、李舜臣ら朝鮮水軍に苦しめられ、いったん停戦した。
1597
文禄の役の講話が決裂し、再度朝鮮へ出兵した。
1598 により、
日本軍は最初から苦戦し、秀吉の死後撤退した。朝鮮出兵は福島正則らと石田三成ら諸大名の対立を生み、豊臣政権は弱体化
1600
石田三成らと対立する諸大名をまとめ、徳川家康が勝利した。
毛利氏の領土を大削減したり、豊臣秀頼を一大名とするなど、家康は敵対した大名を厳しく罰した。
1603 が
徳川家康は征夷大将軍となった直後、全国の大名に江戸の普請と国絵図の制作を命じた。
1605 が
徳川家康は徳川氏による将軍職世襲制を諸大名に示すために、わずか2年で秀忠に将軍職を譲った。
1604 。
ポルトガルによる中国生糸交易の独占に打撃を与えた。
長崎・京都・堺の糸割符仲間に輸入生糸の価格を決定、一括購入・分配させた。のち、大阪と江戸の商人が加わり五か所商人と呼ばれた。
1609 と
家康は朝鮮との国交回復を望み、1607年朝鮮使節を受け入れた。
対馬の宗氏は己酉条約を結んで、朝鮮との貿易を釜山との倭館で行い、対朝鮮貿易を独占した。
1613 江戸幕府、
家康は朱印船貿易を積極的に推進し、平和外交の方針を取っていた。
一方、キリスト教は禁止した。信仰を捨てられなかったキリシタン大名の高山右近と信徒らを翌年マカオとマニラに追放した。
1614
江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦の一つ。
徳川方は兵糧不足と真冬の陣であるということ、豊臣方は兵糧不足と弾薬の不足、徳川方が仕掛けた心理戦、櫓や陣屋に打ち込まれた砲弾での将兵の疲れにより和議を行った。有名な真田丸の戦いはこの合戦中におこった。
1615
江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦の一つ。
本丸、掘り返した堀を除く堀を埋められ裸同然となった大阪城に防ぐ術はなく、真田隊は壊滅しついには大阪城内部台所内部で放たれた火が天守にも上り、5月7日深夜に大阪城は陥落した。
1615 最初の()
大阪夏の陣で豊臣市が滅ぶと、全国の大名に将軍秀忠の名で発布した。
内容は、大名の生活を制限、城の修築も幕府に届け出る等。1635年の寛永の武家諸法度で参勤交代が制度化。
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