日本史テスト
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1720
吉宗は甘藷(サツマイモ)などの備荒・商品作物栽培を奨励するなど、実学を重視。
キリスト教以外の漢訳洋書の輸入を認め、野呂元丈と青木昆陽にオランダ語を学ばせた。こうして蘭学発展の基礎ができた。
1721
吉宗は江戸の都市政策に尽力し、庶民の意見を目安箱に投書させた。
この意見を反映させて、火災対策として町火消が創設され、貧民の医療施設として小石川養生所が設立された。
1722
幕府財政の再建のため、大名から1万石につき100石の米を上納させ、代わりに参勤交代の江戸在住期間を半年とした。
定免法の採用などで年貢を増徴し、財政が好転したので、1731年に廃止。
1723
支出を抑制し、有能な人材を登用するため、在職中に限って旗本らの禄高を増した。
吉宗が登用した有能な人材としては、大岡忠相(江戸町奉行)、田中丘隅(名主から代官へ)、荻生徂徠(古文辞学者)らがいる。
1742 ができる
奉行によって判決がまちまちにならないように、裁判や刑罰の基準を定めた。
大岡忠相らにこれ以前の前例を調べさせたうえで、「十両盗めば首が飛ぶ」などの基準を定めた。
1765 を始める
多色刷の浮世絵を錦絵という。元禄期に菱川師宣が開発したのは一式刷だった。
晴信のあと、寛政ごろに北川歌麿や東洲斎写楽の美人・役者絵が流行し、天保ごろに葛飾北斎や歌川広重の風景画が流行した。
1767 がとなる
田沼意次は10代家治の側用人となり、1722年には老中となって商業資本の積極的利用による財政再建を進めた。
幕府直営の「座」を新設し、株仲間を積極的に公認し冥加・運上の増収を図った。
1772 を発行した。
秤量(重さを測って用いる)貨幣である銀貨を計数貨幣にして、金中心の貨幣制度にしようとした。
たぬまは長崎貿易を拡大して、銅・俵物の輸出を増やそうとした。
1774
前野良沢・杉田玄白らがターヘル・アナトミアを翻訳し、「解体新書」として刊行。
玄白の「蘭学事始」に翻訳の苦心談が書かれている。この後大槻玄沢の紫蘭堂が江戸における蘭学研究の中心的存在になった。
1782 、始まる
東北地方の冷害に始まり、浅間山の噴火が加わって、深刻な飢饉となった。
人肉まで食べる惨状となり、この飢饉の結果、江戸・大阪など主要都市で大規模な打ちこわしが起こった(1782年)。
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