日本史テスト
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最上徳内が千島探検に出発
田沼意次は工藤平助の「赤蝦夷風説考」による建言を受けて蝦夷地開発とロシアとの交易を企てた。
最上徳内は択捉島付近までの探査を行った。この翌年、田沼は罷免された。
寛政の改革、始まる
白川藩藩主で、吉宗の孫の松平定信の改革。
享保の改革を理想とし、農村の再建と商業資本の抑圧を目指したが、厳しい倹約、文武の奨励、出版・風紀の統制などに幕府内外の批判を受け、短期間で終了。
棄捐令を出す
旗本・御家人が札差からしていた借金を帳消しにし、彼らを救済する命令。
この命令により札差は大打撃を受けたが、旗本・御家人の根本的な救済にはならなかった。
忍足寄場の設置
江戸の無宿舎に、職業訓練を行い定職を得させようと石川島に設置。
寛政の政策の都市計画としては他に、飢饉に備えて町費の節約分70%を積み立てる七部積金があった。
寛政異学の禁
幕府の学問書では朱子学のみを教えることにした。これに伴い幕府の学問所は昌平坂に移された。
このころ儒学は陽明学・古学など様々な学派があり、朱子学は衰えていった。
林子平「海国兵談」刊行
林子平は海に囲まれた国にふさわしい国防体制、特に江戸湾防備の強化を説いた。
このころ本田利明は「西域物語」・「形成秘策」を著し、鎖国をやめて海外貿易を盛んにするように説いている。
ラクスマンの来航
ロシアのラクスマンが大黒屋光太夫らの返還を口実に来航し、通商を要求。
幕府は通商要求を拒否、長崎入港許可証を与えて退去させた。林子平を処罰してから数か月後のことだった。
レザノフが長崎に来航
長崎入港許可証をもって、ロシア使節レザノフが長崎に来航し、通商を要求した。
幕府から拒否されると、これに怒ったレザノフは配下の軍人に命じ、択捉島や樺太を攻撃させた。
文化の薪水給与令
相次ぐ外国船の接近に対し、幕府は鎖国を維持するため、外国船に薪・水・食料を与えて退去させる方針に変えた。
この翌年に幕府は蝦夷地を直轄地とし、松前奉行を置いて北辺に備えた。
フェートン号事件
イギリスの軍艦フェートン号が長崎港内に侵入し、オランダ商館員をとらえ、薪水を要求した。
結局、薪水を受け取り人員を開放し退去したが、長崎奉行松平康英は責任を取り切腹。
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