日本史テスト
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1811 の設置
高橋景康の建議で幕府の天文方に設置され、外国所の翻訳に当たった。
大槻玄沢ら優れた蘭学者が翻訳官に任ぜられ、1855年には洋学所として独立し、幕府の研究・出版機関になった。
1814 「」の刊行が始まる
読本作者曲亭馬琴の長編小説。八犬士の活躍で里見家が再興する勧善懲悪の物語。
化政文化では滑稽本「十返舎一九」・「式亭三馬」、人情本「為永春水」、合巻「柳亭種彦」など絵入りの読み物が流行した。
1821 「」が完成
1800年に幕命を受けて伊能忠敬が蝦夷地の測量から始め、彼の死後3年たって完成した。
幕府の秘蔵とされ、国外持ち出し禁止だった。
1825
フェートン号事件についで、1824年イギリス船が常陸大津浜、薩摩宝島に上陸し略奪する事件が発生。そのため幕府は方針を転換。
オランダ船と見間違ってもよいから二念なく(迷うことなく)打ち払えという命令。
1828
帰国しようとしたシーボルトの荷の中に伊能忠敬の地図があり、シーボルトを国外追放した。
シーボルトは長崎の鳴滝塾で洋学教授を行い、高野長英もここで学んだ。
1837
天保の大飢饉で、大阪でも餓死者が出た。大塩は大坂町奉行の無能と買い占めに怒り、乱を起こした。
乱はただちに鎮圧されたが、生田万の乱(越後)など同様の動きが各地に波及した。
1837
アメリカの商船のモリソン号は浦賀に来航したが、打ち払い令のため撃退された。
渡辺崋山・高野長英は幕府の政策を批判したため、彼らを含む学者の団体尚歯会を処罰した(蛮社の獄)
1841年
老中水野忠邦は、天保の飢饉や社会の動乱に対し改革を実行した。
物価高対策として株仲間解散令を出し、農村の再建のために人返し令を出したがいずれも失敗に終わった。
1842
アヘン戦争で清がイギリスに敗北したことを知った、幕府は打ち払いから薪水を与えて退去させる方針にした。
そして沿岸防備を強化する必要もあって、上知令を出した。
1843
江戸・大阪周辺の大名・旗本領を取り上げ、すべて天領とし、幕府権力のの強化と沿岸防備の強化を狙った。
諸大名や旗本に反対されてまもなく撤回し、水野は老中を罷免され改革は終った。
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