戻る

世界史テスト

中世英仏関係史

100 点満点 ( 合格点 70 点 )

残り時間


テストを開始するには [テスト開始] ボタンを押してください。

問題 1.

次の文章を完成させなさい。

  中世フランス王国の出発点は、9世紀にフランク王国が三分された後、10世紀末に西フランクのカロリング朝が絶えてパリ伯が新王朝を開いたときに置かれる。しかし、当初は王権が弱体であり多くの諸侯が競合していた。
  一方、イギリスではまず人が七王国を形成し、9世紀前半にはウェセックスの王がこれらを統一したが、11世紀前半、デーン人の王クヌートに征服された。11世紀後半には大陸からノルマンディー公ウィリアムが侵入し、強力な征服王朝である朝が成立した。この結果、フランス国王の有力家臣がイギリス国王となり、両国の間には文化・制度の面で一定の共通性を生んだばかりではなく、領土的にも重なりあう関係となった。この王朝が絶えた後も、ヘンリ2世が朝を開き、フランスの西半分を領有し、さらに錯綜した関係をつくりだした。やがて、両国で国王の中央集権が展開するようになると、こうした領土的関係が障害となり、両国間の対立の原因となった。
  フランス国王はイギリスのジョン王から大陸の領地の多くを奪回し、ルイ9世は南フランスのを平定し中央集権の大きな一歩を進めた。14世紀初頭にはなおイギリスは大陸に領土を確保し、また毛織物産地として重要な地方をめぐっては両国王の利害が対立していた。以上を背景として、1328年フランス王家が朝へと交替したことをきっかけに、百年戦争が起きた。はじめイギリス軍が優勢であったが、15世紀になりフランスに農民の娘が救国の神託を受けたと信じて現れ、イギリス軍を大敗させた。以来フランス軍が反撃し、ついにカレーをのぞく全国土からイギリス軍を追いだした。また、戦争の混乱の中で封建貴族が衰退したこととも相まって、国王を中心とした統合が進み国民国家の形成への道が開けた。その際、国内的には身分制議会の発展が大きな役割を果たした。イギリスでは貴族の指導者の反乱をきっかけに成立し、1295年、のもとで模範議会が招集され、14世紀半ばには二院制になった。フランスの身分制議会は、国王がローマ教皇と聖職者への課税に関して争い、1302年に召集したにはじまる。
  イギリスでは百年戦争の後、と呼ばれる王位継承の内乱が起こった。貴族たちが両派に分かれて戦ったが、家のヘンリがヨーク家の娘と結婚して朝を開きヘンリ7世と称した。ヘンリ7世は、王直属の裁判所で反対派を処罰し、絶対王政の基礎をきずいた。

問題 2.

9世紀末、デーン人を撃退した大王はである。

問題 3.

ジョン王の悪政に貴族たちが反抗し、1215年彼に承認させたものは)である。

問題 4.

二院制の下院で州を代表した、騎士・商人・富農出身の地主階級は)である。

問題 5.

国王フィリップ4世は1309年教皇庁をアヴィニョンに移し支配した。これをという。


お疲れ様でした。「採点」ボタンを押して採点してください。


結果:
























  

次へ
自主学習テクニック